〜トロイメライ Träumerei 6月号〜
第3回 ライプツィヒへ
<< - 2009.06.01 - >>

活発な少年時代を過ごしたシューマン(1810〜1856)でしたが、ギムナジウムを優秀な成績で卒業したところで将来の進路について改めて考えます。

シューマンが音楽家になるのを応援していた彼の父親はすでに2年ほど前に亡くなっていました。一方、母親は彼がもっと安定した職を選ぶことを望んでいました。シューマンはとりあえず母のすすめに従う形で、1828年、ライプツィヒ大学の法学科へ進学することを決意します。ライプツィヒという街に出てきたことが、結局は彼の音楽家としての道を大きく開くこととなるのですが…。

当時のライプツィヒは文化的水準の非常に高い街でした。その昔は、バッハがこの街にあるトーマス教会のカントル(音楽監督)として活躍していましたし、後にメンデルスゾーンやワーグナーもこの街で暮らしています。楽譜や書籍の出版においても先進的で世界に名だたる街でした。また、シューマンの在籍したライプツィヒ大学はドイツでも歴史の古い大学で、ゲーテが学んだことで有名です(日本人では森鴎外もこの大学に留学しています)。この大学に進学したシューマンが、市民階級とは言え高い教養を備えたインテリであったことが分かりますね。

こうしてシューマンの大学生活が始まりましたが、法律の勉強に専心することはどうしてもできず、もっぱら詩を書いたり音楽を楽しんだり、友人と旅行したりしていたようです。そして一度は見送った音楽家への夢が再び頭をもたげてきます。旅行中にパガニーニのヴァイオリン演奏を聴いたこと、ライプツィヒの演奏会でベートーヴェンの交響曲を聴いたことも、音楽への情熱を呼び覚ますきっかけとなりました。

フリードリヒ・ヴィーク
クララ(15歳の頃)

彼はライプツィヒに住む有名なピアノ教師であったフリードリヒ・ヴィーク(1785〜1873)の門を叩きます。ヴィークは多くのピアニストを育てるのに成功した名教師でしたが、なんといっても一番の成功例は自分の娘クララ(1819〜1896)でした。ヴィークは娘に対し、ピアノだけでなく普段の生活習慣に至るまで徹底的に管理します。その甲斐あってクララはヨーロッパ各地で演奏活動を行う天才少女となるのです。シューマンは大学を辞め、ヴィークの家に下宿しながらピアニストを目指すことを決心します。実はシューマンはクララにこの少し前に出会っています。先月号でご紹介したアグネス・カールス(シューマンが恋していた年上の女性)の家で行われたサロンで、まだ幼いクララが演奏していたのです。しかし、こうしてシューマンがヴィークに習い始めたことで、生涯にわたって深い関わりを持つこととなるシューマンとヴィーク父娘の付き合いが本格的に始まったといえるでしょう。それと同時に、この時点ではシューマンはまだ作曲家ではなくピアニストを目指していたということにも注目しておきましょう。

シューマンが音楽家としての一歩を歩み始めたところで、次号は番外編として彼の活躍の舞台となったライプツィヒの街を覗いてみます!

※画像はWikipediaから引用させていただきました。

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