〜トロイメライ Träumerei 11月号〜
第8回 シューマン、音楽雑誌を作る!
<< - 2009.11.01 - >>

先月、シューマンがショパンを激賞する評論を投稿したことを書きました。その批評が載ったのは、フィンクという評論家が主筆を奮う『総合音楽新聞』という当時のライプツィヒの代表的な音楽雑誌でした。しかし、シューマンの批評が載ったその同じ号に、ショパンの作品を批判的に評したフィンクの評論も掲載されています。また、ヴィークも実はショパンを誉める内容の文章をこの雑誌に送ったのですが、それは掲載を拒否されてしまいました。当時のライプツィヒは文化的な街だったのですが、それでも若く新しい才能に対してまだまだ保守的だったのです。そして革新的な音楽よりは、ただきらびやかで享楽的な音楽がもてはやされていました。

このような状況は音楽の堕落につながるとシューマンは危機感を募らせます。そしてある結論に達するのです。それなら自分たちで理想の音楽雑誌を作ればいいではないか!理想の音楽を発信するのだ!と。こうして1834年にできた音楽雑誌が『音楽新報(創刊当初は『ライプツィヒ音楽新報』)』です。この雑誌が生まれた経緯をシューマン自身が後年振り返っていますので、ちょっと引用してみましょう。

『ライプツィヒ音楽新報』創刊号

「…1833年も暮れようというライプツィヒで、おもに若い音楽家の一団が、ふとしたはずみから毎晩のように顔をあわせることになった(彼らが溜まり場にしていた場所こそが、以前ご紹介したライプツィヒのカフェ・バウムです!)。(中略)…いったい当時のドイツ楽壇のありさまは、あまり愉快なものとはいえなかった。舞台には相変わらずロッシーニが君臨していたし、ピアノに上るものといえば、一も二もなくヘルツとヒュンテンにきまっていた。しかし、ベートーヴェン、カール・マリア・フォン・ウェーバー、フランツ・シューベルトらが死んでまだ幾年にもならないというのに、このありさまなのであった。(中略)…そこである日のこと、若い血に燃える人たちの頭に、今はぼんやり手を束ねて傍観しているべき時ではない、進んで事態を改善し、芸術のポエジーの栄誉をもう一度取り戻 そうではないか、という考えがわいてきた。こうした次第で『音楽新報』が創刊されたのである…」

この文章で、死後あまり演奏されることがなくなったと書かれたベートーヴェンは今では最も偉大な作曲家として有名ですし、逆に非常に人気があると書かれたヘルツとヒュンテンの音楽は現代では埋もれてしまっていますね。今、私たちが知っている作曲家は実はほんの一握りであり、当時人気のあった作曲家が今はすっかり忘れて去られていたり、逆に当時認められなかった人が時代を経るごとに評価を高めていくケースはたくさんあるのです。バッハの音楽も彼の死後、時代遅れだとして急速に廃れていきました。それを復活上演して広めたのはメンデルスゾーンです。内容の深い音楽が必ずしも人気のある曲とは限らないということ、そのくらい人の評価は移ろいやすく曖昧なものだという証拠ですね。私たちが今日バッハやベートーヴェンの曲を聴いたり弾いたりできるのは、シューマンをはじめとする音楽の本質を正しく見極めることのできた人々が、彼らの音楽を遺そうと必死に活動したからなのです。考えてみれば音楽とは、鳴った瞬間に消えていく、形を残せない芸術です。録音技術の発達によって音楽のあり方は確かに大きく変化しましたが、それでもライブの臨場感やその時感じた感動をそのまま再現することは不可能です。そうした音楽を繰り返し伝えて遺していくために、その良さを論じたり教えたり演奏したりするのが音楽家の使命なのだと思います。

それでは『音楽新報』がどのような雑誌だったのか、その中身を来月以降見ていきましょう。


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