大失敗に終わったシューマンのプロポーズから約1カ月の1837年10月15日、ヴィークはクララをウィーンの演奏旅行へと連れて行きます。恋人たちをできるだけ遠ざけたいというヴィークの思惑が働いていたはずです。18歳のクララはウィーンの聴衆に熱狂的に受け入れられ、宮廷音楽家と楽友協会の名誉会員の称号を得ます。宮廷音楽家とは、過去にはパガニーニもなったことのある、大変名誉ある称号でした。
クララとシューマンはその合間も非常にマメに手紙のやりとりするのですが、二人は次第にウィーンに移住することを考え始めます。まずはクララの手紙を少し覗いてみましょう。
1838年1月18日「あなたの『音楽新報(シューマンはこの雑誌の主筆を奮っていました)』をウィーンで出すことは不可能でしょうか。こちらへ二人で移り住むというのはどうでしょう」
3月3日「わたしが言うようにしてはどうでしょう。つまり、わたしたちが一緒にここへ移ってくるか、それともあなたが先に来て、ディアベッリかハースリンガー、またはメケッティ(いずれも出版社の名前)から『音楽新報』を出すのです…第一に、ここではあなたの作品が再度出版され、支払い条件も良いこと、第二に、ここではあなたはライプツィヒよりもはるかに認められ、尊敬されること、第三に、ここは生活が快適で、生活費も少なくて済むということ…(中略)冬のたびに私がここで演奏会を開くとしますと、そのつど高額の入場券の収入で軽く1000ターラーの収入を得ることができます。そのうえ、毎日1時間ピアノ教授をすることができるとして、それがまた年にして1000ターラー…(続く)」
シューマンは以前から、ヴィークとクララの両方に、結婚生活を営むには収入が不安定なことを指摘され、少なからず自尊心が傷ついていました。それに引きかえ、クララはこの手紙を読むとお分かりいただけるように、非常に現実的です。彼女のそんな面が、夢想家でデリケートなシューマンと相容れないこともあったようですが、多くの場合、シューマンは9歳も年下の恋人をとても頼りにしていました。
シューマンの手紙 3月8日「きみは、ぼくに、なんという人生、なんという希望を示してくれることか!時々、きみの手紙を読むたびに、まるで天使に連れられて、新しい創造の渦のただなかを高みから高みへと舞い上がる最初の人間になったような気がする…(中略)そういうわけで、ぼくの目的地は、今からもうウィーンだということだ…。」
『音楽新報』の国際的な拡大や収入の増加などの他にも、シューマンにはぜひウィーンへと移住したい理由がありました。ウィーンは、シューマンが最も憧れていたベートーヴェンとシューベルトという2大巨星の活躍した街でもあったのです。シューマンの日記には1832年5月27日付けで「ウィーンへ、ウィーンへ! 私のシューベルトとベートーヴェンが眠る町。決心はもうついた」という記述があります。つまりウィーンへいつか行くという思いは21歳の時から持っていたのでした。
日記を初めてウィーンへの想いを綴ってから6年後の1838年9月27日、大きな期待に胸をふくらませ、シューマンはウィーンへと出発します。そこでの足固めが成功したら1840年の復活祭までにクララをウィーンへ呼び寄せるつもりでした。
果たしてウィーンではどのような出来事がシューマンを待っていたのでしょうか。