番外編がしばらく続き、シューマンのことをすっかりほったらかしにしていました!今月からまたシューマンの歩みをお伝えしたいと思います。
1838年9月27日にライプツィヒを発ち、10月2日にウィーンへと到着したシューマン。この時期のウィーンはどんな街だったのでしょう。ウィーンは世界界中から音楽家を引き付ける天下周知の中心地でした。しかし、ベートーヴェンが1827年に亡くなり、その翌年にシューベルトが亡くなった後、この地には真に偉大な作曲家はいませんでした。ウィーンは保守的なオペラの街であり、シューマンが多く作曲していたような器楽、特にシリアスなものはどちらかといえばマイナーな側面でした。音楽評論家でブラームスの友人でもあったハンスリックは、ウィーンでの音楽生活の印象をこう記しています。
30年代から40年代始めにかけて、一般の音楽生活はなんと浅薄だったことだろう!贅沢かつ軽薄で、それは愚鈍な感傷と火花の散るような機知とのあいだを揺れ動いていた。あらゆる有意義な知的興味から切り離されて、ヴィーンの公衆は気晴らしと娯楽に身を任せてしまった。劇場が繁盛し、しかもそれだけに止まらず、人々の一番の話題となり、日刊紙の主要なコラムを独占した。音楽生活はイタリア・オペラの名人芸とワルツに支配され、シュトラウスとランナーは偶像化されていた(リンガー、アレクザンダー編、『ロマン主義と革命の時代 ―― 初期ロマン派』 から引用)。
ウィーン体制の基本理念はヨーロッパの協調にあったため、欧州は長期にわたって安定していました。しかし同時に、メッテルニヒ体制は厳重な検閲と密偵制度によってあらゆる革命の萌芽を抹殺しようとしていました。その結果、人々は理念的なものを追求せず日常的なものに目を向け、音楽においても家庭的なものが親しまれていたようです。
また、ハイドンとモーツァルトの生きた時代にはウィーンは楽譜出版の一大中心地でしたが、19世紀前半になるとライプツィヒのほうがこの分野で優位に立っていました。とくに音楽ジャーナリズムにおいてそれは顕著で、ライプツィヒの『一般音楽新聞』は1798年に創刊され70年間定期的に刊行されていたのに対し、ウィーンの『一般音楽新聞Allgemeiner musikalischer Anzeiger』、『ウィーン一般音楽新聞Wiener Allgemeine musikalische Zeitung』はほんの数年続いただけだったのです。シューマンがウィーンへやってきた1830年代後半は、ちょうどこのような時代にあたっていました。
シューマンはウィーンでの住まいをSchönlaterngasse(美しいランタン小路)679番地の2階に定めました。そこは街の中心部、聖シュテファン大聖堂から程近い路地です。ですが、このあたりは小路が多く、地図を見て歩いても迷ってしまうほどでした。地元の人に教えてもらいながら、とても細い路地を入り、さらに小さな教会の脇を入ると、それは突然現れました。急角度で折れ曲がり、昼間でも濃い影の落ちる小さな路地でした。聖シュテファン大聖堂から5分もかからない場所にあるにもかかわらず、そこは喧騒からは切り離されたようなひっそりとした一角です。実際に訪れてみて、なぜシューマンがここを選んだのかが分かるような気がしました。まず、大都会のにぎやかさを横目に、このような人目を避けるような場所を選ぶ事にこそ、シューマンのつつましさやナイーブさが表れているとような気がします。彼はここでひっそりと暮らしながら、機体を胸に、計画実現に向けて動き回っていたのです。