〜トロイメライ Träumerei 7月号〜
シューマンはまずライプツィヒから生まれ故郷のツヴィッカウへ戻り、そこでしばらく過ごします。1838年9月22日のクララへの手紙には「ここにはつらい別れがある。子どものころ遊んだ山々との、数知れぬなつかしい場所との、最後にぼくの懐かしい両親の墓との別れが。…何もかもうまくいって、ここへ再び戻ってくることができれば、どんなに幸せだろう ―― しかも君を妻として腕を組んで」とあり、故郷を後にする感傷と決意が感じられます。
9月27日にウィーンへと向けてシューマンは旅立ちます。今でこそ非常に鉄道網が発達していて、ドイツから近隣の国までは速く、快適に旅することができますが、シューマンの生きた時代はそうはいかず、ドレスデン、プラハを経由しながら何日もかけてウィーン向かう、というルートでした。
旅の途中では、郵便馬車(そもそもは文字通り、郵便物を運ぶための馬車でしたが、やがて郵便だけでなく人も運ぶようになり、座席にクッションを敷いた6人乗りの乗り合い馬車となりました)に乗りそこなって慌てて馬車の扉の踏み段に飛び乗り、振り落とされそうになりながらずっとしがみついて乗ったり、プラハの音楽家との交流を深めたり、なかなかの珍道中だったようです。それらのことも逐一、シューマンはクララへ手紙で報告しています。
そして10月2日にシューマンはウィーンへと到着します。これから約半年間もの間、シューマンはこの街に滞在し、数多くの名曲を生み出すこととなるのです。